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元越山山頂にある石碑に刻まれているのは
国木田独歩  『欺かざるの記』
明治26年11月6日に記載された文章の1節です。  登った翌日に書かれています。


六日
見よ。またも彼の山に煙たちのぼるなり。朝霧をへだてゝ彼の山の朧ろにみゆる
其のうちに白銀色の煙たちのぼるなり。
彼の山は昨日遊びし山なり。    中略

吾窓よりの眺めの余りに美しさに堪えかね、昨日遂に此山に登りぬ。  中略
無類の好天気なり。   後略


元越山に登られたときは、石碑の文章も読んでください。
 
参考書籍
学習研究社  国木田独歩全集 第九巻
         遺稿  元越山に登ル記  より

『元越山に登ル記』は1回目の登山のときのことが
書かれています。 ホームページ作成にあたり
図書館で借りました。

パソコンで探せない字もありましたが、ご容赦ください。

                      元越山に登ル記           


灘山と木立が岳の裾相交叉する所、遥かに一座の大山繙屈するを見る、断崖千尺の奇峰あるに非ず、

屹立天を摩する高山にも非らず、されど久しく余等をして登山の念に堪へざらしめたるは何ぞ、

本越は大陸的山岳の性質を帯び其蜿蜒として起伏する峰、緩やかに流るゝ支脈は何となく壮厳の感を起さしむ

若し朝日未だ昇らざる時窓を開けて望めば焰の如き白雲山谷に湧き断雲其山腹を掠むるを見る、

夕日既に沒し蒼然たる暮色村落市街を包むの時其頂は夕陽に輝き山麓には紫□の湛ふるを見るなり


中略


辭して上る數町にして頂上に達せり、周圍に一樹一峯の遮るなく之に加ふるに一等三角點あり梯を昇れば

板を敷く六疊、眺望最便なり、されど余等の最も愉快に感じて忘る能ハざるは漂渺たる太平洋忽焉として

兩□の内に入りたるセツナ實に其高遠なる大觀に對したる時は一種云う能ハザル感に打たれ殆んど

涕泣せん計りなりき

太平洋は東南二方に開き蒼々として限りなく水平線半圓をなして余等を推□□、俯セば美なる入江あり、

山を負ひたる二三の漁村は夕陽半面を照され、白帆點々海水に映ず。

等只此一所にても一幅の好畫料たるを失はず

首を上げて東方を望めば四國地は大蜿の伏したる如く蜿々として連なり、南端遥かに太洋中に突出せり、

顧みて西南に向へば凸入少なき日向の海岸は一大灣形をなして其南端同太平洋中に烟の如く沒し去れり

日向肥後兩洲の連山は漠々として重疊マタ重疊、嗚呼嘗て三千歳の昔神武大帝意氣慨然數千の健兒を

叱咃したる所と思ハば舊懐の情悖々として禁ずる能ハざりき茫々三千歳幾多の治亂興敗は起りたたり

幾億萬の人は生れ幾億圓の人は死せり、されど山川草木は寂として語らず、河は□として流れ

山又頑として立つ只歴史の之を傳ふるあるのみ

北を眺むれば豊後富士は兀として郡山の上に聳へ佐賀關は遥に佐田の長岬と相對し之を見越して

雲か山か水平線上に横はるは故郷の靑山なり、嗚呼故郷! 故郷! ・・・・後略    
明治の文豪 国木田 独歩は
佐伯に住んでいた頃、元越山に2回登りました
登った日は
明治26年11月5日
明治27年4月22日

ここでは、元越山について書いた
定本 国木田独歩全集 第九巻
『元越山に登ル記』を紹介いたします

 独歩は登ったの?